内山紙の特徴

内山紙は楮(コウゾ)のみを原料として、洋紙パルプを混入していません。楮100%の手漉き和製は強靱で通気性、通光性、保温力に優れています。

製造工程でコウゾの繊維を取り出してから雪にさらします。雪にさらすことで雪が溶ける際に発生するオゾンが持つ漂白効果によってコウゾの皮が白く漂白されます。薬品の使用量が少ない方法によって得られた自然な白さは丈夫で日焼けしにくく長持ちします。この優れた特色によって障子紙の代名詞ともなっています。

変色しにくい性質と強靱さから筆墨紙としても秀でていて、官公庁で使用される手漉き和紙の多くで内山筆墨紙が使われていました。戸籍台帳用紙で長期間に渡り全国的なシェアを持っていたのも、安定性や保存性が高く信頼できる紙として評価を得ていた証です。

毎年6月に新潟で行われている白根大凧合戦は、巨大な凧を川の両岸から揚げて凧綱を絡めて引き合い、先に凧綱が切れた側が負けになるという江戸時代から続く勇壮な祭りです。この合戦で使われる大凧は横5m×縦7m、畳にして24畳分という世界最大級の凧で、竹の骨組みに和紙を貼って作られます。大凧には参加する組ごとに先人から受け継がれてきた作り方の工夫があります。強靱さが大凧作りに適していることもあって、内山紙を使用した大凧が空を舞っています。

内山紙の歴史

内山紙は江戸時代の寛文元年(1661年)に信濃国高井郡内山村(現在の長野県下高井郡木島平村内山)の萩原喜右ヱ門が美濃の国で製法を習得して帰郷し、自家で漉いたのが始まりと伝えられています。

また一説には狩りをしながら山を移動して暮らすマタギたちが、移動中に会得した技術で山野に自生する楮から紙を漉き、飯山市大字瑞穂小菅の内山地積にあった小菅山修験場(神仏混淆)に紙を納めて生活の糧としたところから始まったとも伝えられます。確かな資料が乏しく起源は不明ですが、名前は地名から名付けられたもののようです。

原料となる楮は自生していて容易に手に入ったことから、江戸時代には広く奥信濃一帯で紙漉が行われていたようで、宝永三年(1706年)の「信濃国高井郡水内郡郷村高帳」に「紙漉運上銀二十五匁七分一原」という記載があることから江戸中期には紙製造が徴税対象の産業だったことがうかがえます。

奥信濃で紙の製造が普及したのは、豪雪地帯として知られる奥信濃一帯の農家の冬季の副業として適していたこと、強靱な障子紙の需要が地元や隣接する越後の国で高く現金収入に結びついたこと、そして内山紙の特徴である楮を雪にさらすために雪が役立ったことが挙げられます。

明治時代に入ると製造方法に改良が加えられ、製造工程での動力の導入などが行われます。明治42年には製造1130戸、販売175戸、原料供給1354戸で長野製紙同業組合が設立されました。しかし大量生産の洋紙が普及する中で多大な労力がかかる手漉き製造は生産効率が悪く転業が相次ぎ同組合は昭和24年に解散します。残った生産者が北信内山紙工業協同組合を設立し、350年余続く伝統を守っています。